清水新道の開削
明治維新を迎えて、新道開発が具体的に動き出した。熊谷県が主体となり、明治7年(1874年)6月に湯桧曽村・越後清水村の7里17町39間が着工、わずか4カ月後の10月には名目上、この道路は竣工した。この時の開発は山道を改修した程度のものであったが、翌明治8年には清水村、長崎村、三郎丸村による積極的な道路の補修、休憩所の建設などが行われ、旅客数は増大した。
このような地元の動きを受け、明治11年に内務省によって測量が開始され、明治14年7月に、後に「清水新道」と名付けられる新国道の開削が始まった。明治18年8月に竣工、この清水新道は国道8号の指定を受けた。
群馬県史によれば、総工費は当時の金額で約35万円とされ、道路の構成としてもトンネル2箇所、橋梁166箇所。さらには幅員は約5.4m(3間)、勾配が1/30の設計で、これは馬車が通れるように配慮した当時としては最先端の近代道路であった。この新道の完成により、道のりは三国峠越えよりも4里15町39間の短縮となり、大幅な時間短縮が可能となったのである。
新道開通式と北白川宮親王
この清水新道の開通式の式典には、内務卿の山縣有朋、参議山田顕義ら当時の政府高官が集結し、皇族からも北白川宮親王を迎えて、清水峠で行われた。
北白川宮親王は、慶応4(1868)年の上野戦争(彰義隊×官軍)では彰義隊に担がれ、敗走後も奥羽列藩同盟における盟主に擁立され、「東武皇帝」として即位したとも言われる人物で、この開通式の際は陸軍少将でもあった。
政府高官と宮様の一行は、9月7日、清水峠で開通式を行った後、民宿「おのづか」で休憩し、その日は六日町に宿泊したと伝えられている。これが、現在でも清水で語り継がれている「宮様がやってきた」事の顛末である。
さて、このように悲願の国道ながら、清水新道の命は長くなかった。開通の翌月には既に道路の崩落が始まり、翌年春には雪崩や大量の雪解け水で道路が著しく崩壊、1年を持たずして再び通行不能となったのであった。
その後、旅客は再び宿場の発達した三国峠に戻ったのだが、それも長くは続かなかった。明治26年、信越線が開通し、時代は鉄道による大量輪送の時代に突入した。上越の峠越え街道は廃道同然となり、峠が再び関東への最短路として復権を果たすのは、昭和6年の上越線清水トンネルの開通、そして道路は昭和34年の三国トンネルと国道17号線の開通を待たねばならなかった。
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