本文へスキップ

日本百名山巻機山への登山は清水に宿泊が便利です。

魚沼と清水峠の歴史−古代から近代まで−その1

1. 古代の魚沼

 ここでは、まず古代魚沼郡の歴史について簡単に触れ、その中で清水峠がどのような位置にあったのかを考えてみたいと思います。
先史時代 信濃川流域を中心に旧石器時代後期のものと見られる信州系産の黒曜石の尖頭器が出土していることから、魚沼の地には、数万年の昔から、雪にも寒さにもめげずに人々が生活してきたと考えられている.
 旧石器時代〜縄文時代にかけての遺跡は、主に信濃川流域を中心に出土する。川口町の荒屋遺跡は、信農川と魚野川の合流点にあり、多数の細石刃と荒屋型彫刻器と言われる特徴的な石器が多数出土しており、日本を代表する細石刃の遺跡である。また縄文時代中期には有名な火炎式土器(馬高式土器)が十日町を中心に出土し、その分布域は福島から関東北部、富山に広がっている。
 このように、早い段階からこの地域では独自の文化圏を築いてきたが、縄文後期から、農耕を中心とする文化が伝わってくるにつれ、だんだんと遺跡の数が少なく、小ぶりになっていく。山間地が多く、豪雪のこの地域が農耕向きの土地ではなかったからかと推察されるが、ここから中世までは、魚沼の暗黒時代が始まる。
上古の魚沼
 魚沼の名が初見されるのは延喜五年(927年)に撰進された「延喜式」(当時の法令の施行細則)であり、ここでは越 後国の郡として「頚城、古志、三島、魚沼、蒲原、沼垂、石船」の7郡を挙げている。また、十世紀前半に編集された辞書「和名類聚抄」では魚沼郡に四郷があったことが記されている。さらに古い記録としては、続日本紀の大宝二年(702年)に「分越中四郡、属越後国」とあり、この四郡は頚城(当時は三島を含む)、古志、魚沼、蒲原であるとされている。一応、律令制の導入と同時に、魚沼郡は越中国の一郡として定められたらしい。
 さて、当時の1郷は、律令制の下、50戸を機械的にまとめた単位であり、1戸が1つの家族(拡大家族)に相当し1戸につき10人〜15人が住んでいた。ここから推定される最初の魚沼郡の人口は、僅か2000〜3000人程度であり、同時期の頚城郡が10郷を数えていることと比較しても、その広い面積の割に格段に少ない。これは、当時の魚沼郡の生産力の低さを如実に物語っている。
rekisi_tizu  また、魚沼郡は周囲の他の郡とは異なり、郡司の氏姓も郡家(郡庁舎)の場所もはっきりしない。初期の郡司はその土地の有力豪族が任命されるケースが多いが、その記録が全くないことから、魚沼には有力な豪族もいなかったと考えられている。
 このように、上古の魚沼の記録は少ないが、出土する陶器片などを見ると、隣接する上野国の影響が強く見られることから、交通の要衝としての地位を確立していったようだ。平安中期を過ぎ、東国の開発と荘園の増加、武家の台頭と時代が一気に中世に流れ込み、関東が武家政治の中心 となるのと期を同じくして、魚沼は再び歴史の表舞台に顔を出してくるのである。
上田荘の成立
 保元元年(1156年)京都市中で保元の乱がおこるが、この騒乱で敗れた上皇側の伊勢平氏・平正弘から没収された所領の中に「魚沼郡殖田村」の名が見受けられる。所領となった時期は不明であるが、保元の乱の時点では殖田村は平家の荘園であった。この乱以降、殖田村は皇室領となり、後に上田荘と呼ばれるようになる。
 上田という地名は、今では清水への登口にある、塩沢町の越後上田郵便局、上田第一・第二小学校に名を留めるのみであるが、当時の荘園の領域は広く、六日町南部から湯沢の北部までを含んでいたと考えられている。この他にこのような大きな荘園が誕生したのは、やはりこの地が交通の要衝だったからであろう。後述するように、魚沼から上野国に抜けるには、三坂峠、三国峠、清水峠の3ルートがあるが、このルートが分岐するのが上田荘であった。また、越後府中から松代、十日町を越えてくる松之山街道も上田荘で合流している。
上越国境の三つの峠
 上越国境を超える、三坂峠(旧三坂峠)、三国峠(三国三坂峠)、清水峠(馬峠)の3つのルートは、現在全て国道に指定されているが、車が通行可能なのは三国峠だけである。清水峠は明治18年に一旦馬車道を開削したが、現在は廃道 であり、三坂峠はただの登山道である。3つの峠は、どれも古代より人の行き来はあったと考えられているが、盛んに使われた時期はそれぞれ異なる。
 名称から最も古いと考えられるのが三坂峠で、御坂或いは三坂とは、かつて朝廷が制定した官道の名残であると考えられている。清水峠(江戸期以前は馬峠)は、戦国期に上杉謙信が整備し、直道と呼んで関東出陣の際に使用している。清水峠越えは上越国境越えの最短ルートであり、明治期の国道開削も時間短縮を目的としたものであった。
 最も近年になって栄えたのが、現在も国道17号線が通っている三国峠である。ここは江戸期に参勤交代路として使われるようになって宿場が整備され、他の峠は実質的に封鎖されてしまった。
 なお、三坂峠は以前は完全に薮に覆われていたが、近年慶応大WV部が刈り払いを行い、登山道となっている。
落武者伝説
 「清水は平家の落ち武者の集落で・・・」という昔語りを雲天で開いた人は多いと思うが、ここでは僭越ながらこの落ち武者伝説について考察してみたい。平家の落武者伝説は全国に広く流布しているが、これは日本中に平家の落武者が流れていった訳ではなく、日本人がいかに平家物語が好きかということの表れであろう。源平合戦において、平家が滅亡に至る戦いは全て瀬戸内沿岸の西国であった。では、この魚沼は源平合戦とは縁がなかったのか?さにあらず。平家物語にも上田荘は登場するのである。
 養和元年(1181年)六月、越後の豪族で平家の一党である城氏が木曽の源義仲と戦っているが、その際城氏は軍勢を三手に分け、四万騎を国府から直接信濃へ、一万騎を千曲川沿いに、一万騎を「植田越」へと送り出している。その後信濃国横田荘の戦いで城氏は木曾義仲に完敗し、会津に逃げ落ちた。では、逃げ落ちる城氏の一党は清水に逃げ込んだのだろうか。残念ながらその可能性は低い。当時、清水峠は、通行量の多い街道であった可能性が高く、落武者が隠れるのに適した場所ではなかった。後に、江戸期になって清水峠が通行止めとなり、辺鄙な場所とされてしまったことが、落武者伝説の下地になったのであろう。
 さて、当時の峠の通行量を知ることは困難であるが、清水峠を人々が多く行き来していた傍証はある。
 大字長崎にある真言宗大福寺は、元々清水に建久年間(1190年代)に創建されたと言われている。大福寺の本尊は阿弥陀如来であるが、別院に聖観音を奉じており、この聖観音別院は越後三十三観音の第十一番札所となっている。この観音信仰が世に流行したのは、平安朝末期のことであり、峠にお堂を建て、布教を行うことは、この時盛んに行われていて、峠のお堂は行き交う旅人で賑わっていたのではないかと想像されるのである。
 三坂峠には群馬側に現在も薬師堂が残っているが、薬師如来信仰は、観音信仰とほぼ同時期のものであり、実際、この薬師堂は鎌倉期以前の創建であると推定されている。

1. 古代の魚沼  2. 戦乱の時代  3. 近世の魚沼〜清水峠  4. 明治・清水新道の開削