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日本百名山巻機山への登山は清水に宿泊が便利です。

周辺の動物たち

清水の動物伝承

はじめに
私が大学2年の頃、1960年8月に高校の友人4人で巻機山に登ったことがある。その時泊まった民宿が雲天で、先々代の小野塚道徳氏とその兄の正生氏にお会いし、囲炉裏端で色々と面白い動物の話を伺ったので皆様にご披露する。正生氏は19歳から40歳まで狩猟に従事されたそうである。

ツキノワグマ (熊狩り)
長かった冬も終わり、熊が冬眠から覚めるのは春の土用の頃、辛夷(コブシ)の花の咲く頃で、4月18日頃から、黄金週間にかけてで、熊狩りもこの時が盛りである。
熊発見の報が入ると部落では早速隊列を組む。銃を持ったのが一番高い真山(まやま)とその両手の肩と中尾根に陣取る。そして、各々のハンターの位置から下方に向かって3本、小の字型に柴を刈って置き、ここを熊が横切るか、登って来たら撃とうという寸法だ。体制が整ったら今度は鳴子(なりこ・勢子のこと)が大勢で下から熊を追い上げる。これを現地では「鳴り上げる」という。獲物は上へ上へと「鳴り上がり」遂には3本の内のいずれかに差し掛かって撃たれてしまうという次第だそうだ。
熊の冬眠から覚める時期は主に前年の秋の実り具合により、実が沢山成った翌年は未だ、食べきれないで冬を越した実があることを知っており、経験熊はちゃんと、早めに出てきてそれらの残った実を食べるのだそうだ。

ニホンオオカミ
上越線の清水トンネルは1931年(昭和6年)9月に7年の歳月を費やして完成したが、これはその工事中の話である。
その年は大雪で2階からワッパで出入りをしていた。正生氏が巻機から稜線を南下して笠ヶ岳の宝川側を歩いていると遠くに4頭連れの奴を目撃した。一番大きいのは灰色で6貫ほどもあっただろうか、仔を連れていたので躊躇っていたら撃ちそこなってしまったが、おなじ年に小出で1頭仕留めた人がいる。それは3頭連れの内の1頭で、部落付近に出てきたのを皆の衆が巻いて、一発ぶって、弱ったところをヤイヤイ囲んで小鋤で撲殺してしまったそうだ。
学会の定説ではニホンオオカミは1905年に奈良県で捕えられた1頭を最後に絶滅したと言われているが小出の方がそれより後になる。ヤマイヌとの混同が考えられるが、これについては六日町の綿屋が狼と鑑定したそうだ。特徴は耳にあり、ヤマイヌとは異なり、前が3分の一くらいしか見えない「ツボツボした耳」を持っているので間違いないとの事だ。
狼の毛皮は実に不思議を物で、これを敷いて寝ると一晩中暖かいが、不吉なことがある前触れとして、ゾクゾクとして眠りを妨げる作用がある。同じようなことがマンシュウオオカミにも伝えられ、誰かが訪ねて来る前には毛が立ってそれを知らせると言われる。

大蛇
信じ難い話のついでに、蛇の話をしよう。
あの頃はここら一帯、どこの沢でも脛の痛いほど岩魚がぶつかり、国土地理院の測量班は昼間でも樹々が覆いかぶさり、真っ暗なので灯をつけて沢を遡行していた。
マナワという兎の罠をかけながら米子沢の上部の風這いに行った人がいる。南風の時にガスが這い上がるのでこの辺のコルは皆、「風這い」と呼ばれ、今でもそれが地名となって残っている所もある。罠を掛けた数だけ兎がかかり、笑いが止まらなかったが、その時、ふと、脇を見ると柴に50cm位の溝が長く続き、昨日までなかったよい路がある。しかし、歩いた足跡は全くない。異様な雰囲気にふと、後ろを見るとまるで4尺9寸のその男と同じくらい高く、大きな鎌首をもたげた大蛇が睨んでいるではないか。彼は兎を全部放り投げて、命からがら逃げ帰った。
この話が村中の話題になって間もなく、五三郎どんは腹の薬になる生薬の黄連を掘りに山に行った。聖平の上部に行くと茅の束が乱れている。樹があっちこっちに引っ張られていて子供の悪戯にしては念が入りすぎている。よく見るとそれは大きな物を引き擦った後の様で、生臭い臭いがして、ジメジメとしている。ハッと気が付き、どえらい物を見たと逃げてきてしまったが、それっきり、大蛇の噂は絶えてしまったそうだ。なお、蛇の出世する条件は山に3年、川に3年、人の軒に3日と言われている。

その他
カモシカ、ニホンザル、キツネ、タヌキ、アナグマ、テン、イタチ、ウサギなどの哺乳類が棲息している。昨年(1959年)あたりも仕掛けでテンが数頭獲れている。テンはしぶとい奴で、片足が罠にかかり、駄目だと見るや、自分の鋭い歯でその足の上部を噛み切って逃げてしまうという芸当をやるそうだ。

おわりに
現在も狼や大蛇はいないだろうが、その他の沢山の野生動物が棲息していると思われる。日中に見かけることは滅多にないだろうが、今でも積雪期に行くとかなりの足跡を見ることが出来る。これらと共存できる豊かな自然を大切にしたいものである。

(本稿は、東京大学ワンダーフォーゲル部OBの山崎和男氏の2013年執筆のものをお借りしました。)